Bioethics
生殖医療に対する生命倫理の基本的な考え方
生命倫理で最も重要になってくる概念は、やはり人間の生命の尊厳であると思います。生命はこの世にたったひとつしかないかけがえのものであるからこそ、いかなる理由があれども、むやみに人の手によって操られるべきではないと思います。したがって、生命倫理の基本的な考え方からすれば、生命を人為的に操作することはモラルにそむく行為になるのではないでしょうか。倫理を重視すれば、生殖医療は受け入れがたくなります。
しかしここでも、さまざまな考え方の違いが存在することは確かです。場合によって、生殖医療が功を奏することもあれば、反対に人権を無視した危険な行為につながることもあります。
例にあげたような、受精卵診断の場合、問題となるのは、受精卵の段階では、それがヒトであると言い切れるのかどうかということです。ここでは、科学的な判断のほかに「ヒトはどの段階からヒトなのか」といった哲学的な問いかけが必要となってきます。
トゥーリーのパーソン論(※)のように、受精卵が‘ヒト’ではなく‘モノ’の段階であるとすれば、判断は早い。しかし、‘ヒト’は受精した瞬間から‘ヒト’であるという考えも存在します。こうなると人為的な受精卵の選別は人間のモラルに反していることになります。このように生殖医療に対しても倫理的な判断による肯定、否定の論が存在し、意見の衝突は絶えないといえます。
マイケル・トゥーリーのパーソン論とは
トゥーリーは、 `Personhood' (in A Companion to Bioethics, Helga Kuhse and Peter Singer ed., Oxford: Blackwell, 1998)で、 「人格を殺すことは不正である」という主張はみなが認めるとしたうえで、 次のような問いを提起しています。
【1】どういう条件がそろえば、ある生物(または無生物)が「人格」とみなされるのか。
【2】人格があるかないかは、程度を認めるものなのか、あるいは1か0かというものなのか。
【3】潜在的(可能的)な人格(たとえば受精卵)を殺すことは不正か。
【1】の問いに対してトゥーリーは、 この論文では明確な答を述べておらず、 一般的な見解として、1.自己意識を持っていること、2.合理的思考能力があること、 3.道徳的存在者であること、4.長期的な利害関心を持つ主体であること、 5.記憶を通じてある程度の連続性(自己同一性)を保っていること、 6.単純に意識を持っていること、 などがそれぞれ人格を持つために十分な条件として考えられていると述べています。 しかし、たとえば6.を人格の有無の基準にすると、 多くの動物が人格を持つことになると指摘しています。
【2】については、トゥーリーは次のように述べています。
「もし1.人格を殺すことの不正さが、本人にとっての自分の生の価値と関係しており、2.さらに本人にとっての自分の生の価値が、(1)で述べられたような人格の条件となる特徴の程度によって異なるならば (たとえば、合理的思考能力の程度に応じて、生の価値が増減するならば)、人格があるかないかは程度の問題であることになる。この議論を認めるならば、動物にもある程度人格を認めなければならないかもしれないし、また、通常の人間も小さな頃や老いた頃にはより少ない人格を有するということになるかもしれない。」
【3】に関しては、さらに受動的な潜在性と能動的な潜在性を分け、能動的潜在性は人格と等しい扱いを受けるべきだと主張する人がいますが (たとえば、受精卵は能動的潜在性を持つが、まだ結合していない 卵と精子は受動的潜在性しか持たないという風に論じられる)、 トゥーリーはこのような区別は成り立たないとし、 直観的な例を用いてそもそも潜在的な人格は道徳的には重要でないとしている。
また、トゥーリーは、 特定の生物種(たとえばヒト)に属しているすべての個体に人格を認めるという議論も成り立たないとし、無脳児やアルツハイマー病の人を、単に「人間だから」という理由で人格を認めることに反対しています。
これらの考察から、 トゥーリーは人間の胚、胎児、新生児は人格を持たない(ので場合によっては殺すことが正当化される)か、あるいは人格を認めるならば多くの動物に人格を認めなければならないと結論している。